天然理心流の本来の稽古「撃剣」について
令和2年10月・・・DVD発売を前に
「撃剣」…今ではその呼び名が何を指すのか御存じない方も多いと思われますが、現代の「剣道」の前身となる防具・竹刀によるコンタクトする稽古の総称でした。
幕府瓦解後の食い詰めた士族の救済の為に競技、見世物化した事からややもすれば敬遠されがちな呼び名です。
今回お話しますのはそうではない本来の江戸中期以降の、特に関東を中心とした剣術に於ける原点回帰・実力本位の稽古法についてです。
武蔵や卜伝、伊勢守のような天才の時代は終わりを告げ、剣術が形骸化してしまったこの時代、関東武士の末裔も多く気質の荒い関東の特に農村部では実力主義の剣術が多く現れました。
防具で身を固める事により最低限の安全が保障され、存分に撃ちこむ事が出来るようになりましたが、深遠な理合や煙に巻くような言葉では隠しきれなくなった事もたくさんあった事でしょう。
さて天然理心流についてお話したいと思いますが当流は最も小説家に愛され、在野の研究家に取り上げられてきた流派のひとつです。
それだけに誤伝も多く未だに訂正されてはいません。
「天然理心流は型稽古を重んじた為、実際の斬り合いに強かった。しかし竹刀稽古は弱かった」
大体のイメージはこんなところに納まりますが、これなどは褒めているのか、貶しているのか分かりません。
日頃から体力の続く限り、撃ちあわない者が実際の戦闘にどれだけ通用したでしょうか?
そして理心流は初めから、防具稽古を想定して創始された流派だった事は時代背景、そして実際の技、稽古内容からして間違いない事実でした。
当時の稽古日誌が理心流各派の門人宅に現在もいくつか残っています。
そららを見てみるとほとんど毎日「誰某と何本、稽古した」とあり、ごくたまに「型稽古」の記載です。
最も「型」も現代のように「見せる為の型」ではなく、防具着装でこそ理解できる型がほとんどです。
理心流は神秘の剣でも何でもなく普通の人が汗を掻いて強さを獲得する「ただの剣道」でした。
新撰組ファンには都合が悪いかも知れませんが華麗に刀を振り回すのではなく、非常に泥臭い稽古を毎日続ける事が近藤勇先生を始め、土方・沖田その他面々を強くした所に気付いて頂きたいのです。
さてそれでは「撃剣」とはどのような稽古を指すのか?
まず当流に於いては「型で教わる技をどのように使うのか?」を試す場でありました。
ですから初期の「撃剣」は勝ち負けよりも自分の為の稽古だったのです。
競技として進化した「剣道」は面・胴・小手と打突部を限定する事により、より安全に稽古出来るとともに神業のようなスピードとタイミングを生みました。
その対極に「撃剣」は撃つ場所を限定しません。
もっと言えば「防具の無い場所を撃つ」稽古をしていたのです。
侍としての最終的な目的は甲冑にて戦場で主君の為に命を懸ける事でした。
よって防具の稽古も甲冑戦を当然意識していました。
やがて他流との稽古の中で勝敗優劣を気にするようになり決定的な打突部位は面・胴・小手(そして足)が主になっていきますが、今と違い荒っぽい稽古の中では禁じ手は多くはありません。
ゆえに剣道との大きな違いは「組む」「投げる」「極める」「絞める」と言った総合性です。
これは同じ撃剣流派でも特色がありますが、天然理心流は「剣5分・柔5分」の両輪で成り立ってますので特に組討を重んじます。
天然理心流の防具稽古についていくつかのポイントをお話しておきます。
基本的に「刀を使っている」事が前提ですので現代剣道とは間合いが違います
そして相打ちになるような正面衝突は極力避けます。
- 遠い間合いから相手を誘い、撃ってきたものを体さばきで抜く
- 自分の前にある相手の切っ先を中心から外して打間に入る
- 相手の刀の下には入らない
- しっかり受ける、しっかり弾く
想像してください…相手の刀の切っ先が目の前にある事を…
「軽くすりあげる」「軽く叩く」ようですと相打ちになるか、容易に反撃に合うはずです。
昭和以降、天然理心流だけでなくどの撃剣流派も現代剣道に統合されていきそれぞれの個性を持った考え方や技法の多くが失われてしまいました。
そして型の保存や披露のみが流派の活動になってしまったのです。
(型稽古についても本来は見せる為の稽古ではなく、自分の為の稽古だったはずです)
私ども天然理心流武術保存会は形骸化しつつある天然理心流を往時の姿に戻す為、撃剣の稽古を再開しました。
申し上げたようにこれは特別な事でなく、当たり前の姿に戻しただけです。
近く発売されるDVDでは細かいポイントまでご紹介していますのでそちらをご覧頂く事で江戸中期より戦前まで続いてきた天然理心流の本来の稽古法に触れていただけるとともに「何ゆえ新撰組が強かったか?」その理由のひとつにも近づいて頂けると思います。
写真提供:月刊秘伝