居合論

天然理心流 居合論

1、はじめに

「体力に自信がないので居合をメインで稽古したいのですが?」とのお問い合わせを頂きます。

 そこで当会の考え方についてお話しておきます。

 現在、世界中に居合の愛好家はどれぐらいいるでしょうか?

 詳しい数字は分かりませんが洋の東西、老若男女問わず多くの修業者がいるはずです。
 それでは何ゆえ「居合」は人気があるのでしょうか?

 ほとんどの方にとって初めは刀やサムライへの興味から入り、やがてその深い精神性に惹かれ生涯を通じての付き合いとなるのでしょう。

 では明治期以前の居合流派に等しく現在のような精神性があったかどうか?
 ここからは当会なりの居合について語りたいと思います。

2、天然理心流 居合について

 天然理心流では修業の途中、「中極意目録」の段階でやっと「立合 3本」「居合 9本」を習得しますが、開祖はこう言います「侍としては最低限は知っておくべき用法」だと。

 入門から当面は「柄砕」「こじり捌」「奏者」などの主に帯刀時にいきなり危害を加えて来る者から如何に離脱し制圧するか? と、言った技を習得します。
 刀を抜き斬りまくる稽古とは入門後しばらく無縁ですが、この体術的要素の強い一連の稽古にて後に繋がる体捌きの多くを習得するのです。

 当流では立ち技として「立合」、そして座した状態で四方からくる敵に応じる「居合」があります。

 抜きあった状態から始まる剣術に比べ鞘に収まった刀を「如何に素早く抜き出して対応出来るか?」次に「不利な状況を如何に逆転出来るか?」をここのパートで教わるのです。

 ついでに申し上げれば、剣術の稽古の中には「多数敵」の想定はほぼありません。
 この「居合」のパートの中にのみ多数敵の対応が出て来ますが稽古体系の中ではあくまで附けたり程度でしかありません。

 華麗な立ち回りを想像すれば期待外れですがそれだけ開祖たちは真剣勝負のシビアさを理解していたのでしょう。
 余程の実力差がない限り多くの敵に囲まれて映画のように切り抜けられる訳もなく、そう言った仮想稽古は時間の無駄でしかない事はリアルな武術修業者なら承知の通りです。

 まずは剣術で対敵の型稽古そして防具による実戦稽古を重ねる事で強靭な肉体を作り心肺機能を高める事、またタイミングや勝負勘を磨く事が当流では先です。もしあなたが天然理心流に入門していきなり刀の抜き差しや、(イメージも出来ないのに)仮想敵との居合の稽古ばかりをさせられているとしたらそれは開祖の教えと全く矛盾しており、また貴重な修業の時間の無駄でしかないでしょう。

3、「立合 3本」で習うべき事

 ここで習得するのは主に抜き打ちの技術です。
 それでは抜き打ちが必要になるのはどんな時か?

  • 路上でのすれ違い間際、急に相手の敵意を感じ対応する

 この場合も自分の刀が「先に相手に到達する」「相手の攻撃を受け、すぐの反撃」までが居合・立合であり、それ以降は「通常の剣術」に変わりありません。

  • こちらから相手が思いもよらない状況で刀を抜き、先手で斬る。

 こちらの狙いが外れて相手の反撃を受けるようになれば「通常の剣術」と同じ。当流 中極意目録「立合」で学ぶのは、目録までの木刀・竹刀の稽古では出てこなかった実際の刀の抜き差しです。

  • 自然な歩行
  • 小さなモーションで鯉口を切る
  • 太刀筋の正確性

 遠い間合いからお互い敵意を確認の上で刀を交える通常の剣術と違い、急迫の状態では最小限の動きで「抜き」「届かせる」事にのみに特化しなければなりません。
まず当流「立合」で必要な事はこの程度です。
 但し、「この程度」の事を極めるのがどれだけ難しいか? と言う事が大切です。

4、「居合 9本」

 居合(座った状態からの技術)として9本の技があります。

 これらは「まずは前から」「左から」「右から」「前後から」等、自分の前後左右から来る敵に対してどのように対処するか? の習得です。

 敵が左右、逆になるだけで刀の抜き方も変わりますのでそのようなシュミレーションをこのパートで学びます。

 蹴りや当身を多様するのが当流の特長でしょう。
 柔術に重きを置く当流の面目躍如的な部分です。

 然しながら動く敵に対して実際に「蹴る」「当てる」という事が如何に難しいかをここでしっかりと学ばせます。
 敵は素早く容易に自分の刀は届かず、敵は重く容易には倒れてくれないのです。

5、「居合術」の幻想

 各流派により様々な考え方がありここで述べるのはあくまで天然理心流に限っての事です。

 当流の技の中には左右の片手技をいくつか含みます。
 そのどれもが「不意打ち」か「応じ技」のひとつで、まさか片手技で二手三手と続く事はありません。

 鉄壁の構えに対して片手技がどれだけ非力か? 少しでも対敵で稽古をすれば明白です。

 片手で相手の刀を受け止めたり、払い落としたり……両手が使える状況ならば必ずと言って良いほど控えたい行為です。

 と、言うことは立合・居合で教わる事は「急が迫った状態からの脱却」に限定されています。

 また、相手がどのように動くか? と言う事が全く無視された稽古を時々見ますが常にそこを想定していなければ型踊りにしかならない事は一番大切な事でしょう。

 相手がいない先をいくら斬っても仕方がないと言う事です。

 また人を突き放し、人を斬るのにどれだけの圧力があるか? なども居合稽古には必要な部分です。

 再度申し上げれば当流の居合は技術の習得であって、そこには深い精神性も人間形成の道もありません。

 もっと言えば居合術の精神性を求めたのは一部の流派や明治以降の風潮だと思われます。

 私どもとしては「刀の幻想」を排除した上でトータルな技の追及の中でこそ自分を見つめなおしたり、人間形成の道を模索したりしていきたいと思っています。

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